虚ろや混沌に戻り、自由に鑑賞する
——来支鋼水墨山水の「現実の境」と「仮想の境」
来支鋼氏の水墨山水は「現実の境」と「仮想の境」の2つの異なる表現方法と雰囲気があります。彼が求める「現実の境」は客観的な物事に対する完璧な再現であり、シミュラクラとリアリズムが大事です。彼の「仮想の境」は「現実の境」をぼかし、芸術化した結果です。彼の作品に示される「仮想の境」は、現実世界の断片である場合もあれば、現実世界を芸術化したり、現実世界の反転や象徴である場合もあります。彼の水墨山水画の作品において、仮想の境の素材はほとんどが現実世界からきております。彼は象徴的な芸術的技法で、縹渺、自由気まま、雰囲気の似ている審美効果を醸し出します。
来支鋼氏の「現実の境」は荘厳な美しさとして表現されています。10メートルの長さを超えた巨大な作品には、雄大な山々や流れる雲が描かれております。整然とした筆墨で湧き出る荒々しい力を表現し、銭塘江の潮が轟音を立てて岸を横切るかのように、抑えきれない内なる衝動が伝わります。それは一種の「現実の境」であり、来支鋼氏が求める重厚で安定した力強い美しさでもあります。彼の「現実の境」を表現した作品は、北宋の山水画のパノラマビューを参考しましたが、北宋の山水画にある親しい感じがせず、宗教的で神秘的な雰囲気が漂っています。この神秘的な雰囲気は、画家が対象物に対する感情の移入と絵の芸術的処理から生まれております。力強い筆触で描かれた緻密で複雑な奇妙な峰や崖は、見る者に北宋の山水画が重視する「鑑賞できる、登れる、旅できる、住める」空間的な可能性を与えることなく、蒼然の雰囲気だけを醸し出しました。山間を流れる雲は空間感覚の作りが目的ではなく、「動」と「静」の対立だけを構成しました。来支鋼氏の目的は、鑑賞者に自分自身が絵を見ているのではなく、周囲の世界の騒音が消え、滝の音が聞こえ、雲が見えるかのように、崖の下に立って自然を見つめていると感じさせることです。
「現実の境」を主体とした来支鋼氏の山水画は、荘厳で壮大な空間を作り上げました。この種の作品は、独特のプロット、壮大なイメージ、優れた構成、独特の筆墨技法を持ち、物事と自身との間の暗黙の了解、精神と精神の統一を表現しました。彼は特定の情景の描写に重点を置かず、象徴的な意味を巨視的に表現することを好みます。物理的空間の束縛から解放された蒼茫たる墨の色と、秘境のような山や川が常に絡み合い、動き続ける心理的時間映像と精神的空間映像を構築しました。視覚の面から言うと、来支鋼氏の「現実の境」の山水は、有形と無形、有状と無状を統一させ、時間と空間の制限を超越した領域を作り出しました。聴覚の面から言うと、「現実の境」の山水を見る人は音声に対し、「大きな音」を感じることができます。「大きな音」は静かで、当然聞こえません。静かな沈黙は神聖な感情への応答ですが、来支鋼氏は、絵の静かな沈黙の中で鑑賞者に交響曲のような壮大な音楽を聞かせたいと考えています。このような視覚と聴覚の感覚により、直接の表現しなくても、暗示を通して神聖な存在を体験させることができます。鑑賞者は穏やかな雰囲気に包まれ、ミサの中で最も神聖で神秘的で瞬間的な体験を得ることができます。これが来支鋼氏の心の中にある「大きな音」です。「静寂」の状態、または玄妙な状態でのみ体験することができます。
来支鋼氏の「仮想の境」は、幻想的な美しさを描いています。幻想や煙雨に満ちたイメージで、「山に登り、水に向かい、時間を忘れてしまう」(『晋書・阮籍伝』)ような感覚をさせます。来支鋼氏の壮大な作品は「現実の境」で「仮想の境」を作り出すことに焦点を当てているのに対し、彼の水墨山水図の重点は「仮想の境」で「現実の境」を表現することです。
来支鋼氏にとって、中国山水画が表現する現実物象は現実世界の「真実」でも、自然山水の「鏡像」でもなく、人間が自然に対する悟り、及び昇華した後の自然の「虚像」です。このような虚像は変化するものですが、「現実の中の仮想」「仮想の中の現実」を表現しています。「仮想の境」を主体とした彼の作品では、自然界の山、木、雲、水、人物、建物などはぼんやりと認識できますが、それらはすべて雲や霧に覆われ、霞んだ煙の中にあり、天地無言、大象无形の千年の寂しさを表しました。老子には「物有り混成し、天地に先だちて生ず」、「無状の状、無物の象」という言葉があります。つまり、道は人間が見える、天地万物の形や状態を定めました。しかし、道そのものは直接認識することができないため、形のない形、物体のないイメージです。「仮想の境」を統合した来支鋼氏の山水画作品は、意図的か意図せずに、水墨画と中国哲学の内的なつながりを結び付けました。そのため、彼の水墨山水画は特定の対象に束縛されず、主観的な感情を客観的な対象に溶け込み、筆墨、現代美学の表現方法及び芸術に対する形而上の美意識で、自分が人生に対する追求を無限な芸術的概念に変え、「現実の境」の物象で「仮想の境」に対する自分の体得を説明します。
おそらく来支鋼氏の頭の中では、「現実の境」も「仮想の境」も「静」の表現形態なのでしょう。静とは、目には見えない無形のものではあるが、心で感じることができます。王夫之の言葉通り、「有形は無形から発生し、無形は有形を生み出す」のが「静」のイメージです。「現実の境」と「仮想の境」を兼ね備えた来支鋼の山水画では、彼は自分の思いを有形の物体に託し、作品の「静」と「無形」を構築しました。そのイメージはまさに唐の司空図の言葉「虚ろや混沌に戻り、自由に鑑賞する。万物を兼ね備え、宇宙を超える。流れる雲と寂しい風。世界を超越し、環中を得よ。無理すれば得られるものではなく、自らやって来るのである」のようです。つまり、来支鋼の「現実の境」の山水の雄大さと、「仮想の境」の山水の「幻想」は、両方とも山の有形物によって触発されたということになります。そのため、「仮想の境」は「現実の境」で感じた物であり、主体性が高いことにより、人々は主観的な感情を客観的な映像に溶け込み、「虚ろや混沌に戻り、自由に鑑賞する」ことができました。
中国山水画には長い歴史を持ち、筆墨の豊かな伝統と文化的血統が蓄積されていますが、この豊かな伝統が今日の風景画家の創作を難しくしました。困難な点は、古人の筆墨技法を継承することではなく、古代の山水画家の心を理解することにあります。要するに、山水画が風景画ではなく山水画と呼ばれる理由は、中国の山水画が主観的な構成と観念の解釈に重点を置いているためであり、山水画が描かれているのはよく見られる美しい風景ではなく、画家本人が不重要な部分を捨て、自然の中の山や川を超現実の山水の景色に凝縮させた山水の景色です。強調しているのは、内なる気持ち、透き通る詩的雰囲気と、俗事に気にしない追求です。従って、中国の山水画は文学的、理想的、哲学的性質に満ちており、儒教、仏教、道教の文化の視覚的な「詩的」表現です。このような詩的表現は司空図の二十四品、特に「虚ろや混沌に戻り、自由に鑑賞する」 の美学的範疇に集中しています。来支鋼氏の水墨山水画の重みは、「自由に鑑賞する」という手段で「虚ろや混沌に戻る」目的を達成することにあります。「虚ろに戻る」ことは自然の法則に沿うことです。このような姿勢と心境で山水創作に取り組むとき、彼の精神は既に自由な精神空間に入ったでしょう。このように、創造の媒体として現れた自然の山水物象が、時間と空間の制約から完全に解放され、共存しながら独立する「現実の境」と「仮想の境」に転換し、「君の中に私がいる」「私の中に君がいる」という山水画の雰囲気と水墨の表現形式に変容しました。
おそらく、これこそ来支鋼の山水画が表現したい伝統的な魅力と現代的な意味の深い美学的審美です。
羅一平
中国美術家協会策展委員会副主任
広東省中国画学会副会長
開幕式参加ゲスト:
広東省美術家協会主席、広東画院院長 林藍
広東省美術家協会副主席、広東美術館館長 王紹強
中国美術家協会策展委員会副主任、評論家 皮道堅
広東省委組織部元副部長、省直機関工委元書記 羅東凱
広東省美術家協会副主席、広州彫塑院院長 許鸿飛
中国美術家協会策展委員会副主任 羅一平
広東省美術家協会副主席、広東画院副院長 宋陸京
広東省美術家協会主席団メンバー、広州彫塑院副院長 陸增康
中国美術家協会油絵芸術委員会委員、中国重大題材美術創作委員会委員 孫黎
広東美術館副館長 胡鋭韜
広東省客家商会会長、大百匯実業グループ董事長 温純青
深セン来支鋼芸術センター董事長 温長青
この展覧会の芸術家 来支鋼
芸術家:来支鋼
キュレーター:王紹強
主催者:広東省美術家協会
広東美術館
協力者:李可染画院
実施者:深セン市来支鋼積墨山水画文化芸術発展有限公司
展覧会の備考
展示ホール:広東美術館1/2/3/4 号ホール
統括:邵珊、胡鋭韜
組織:黄海蓉、来帥、趙漫錡
プロジェクト責任者:林薇、張麗敏
陳列:袁喜明、熊鶯、魏宇彤、梁卓然
視覚設計:李漾
公共教育:植凱鵬
宣伝:塗暁厖、曾叡潔
調達:高玉華
営業時間:9:00~17:00(月曜休館、祝祭日は開放)